逆修石(ぎゃくしいし)

 この岩(写真右側)については、不可解なことが多いが、はっきりわかっていることからあげてみよう。
第1  この岩が、逆修石とよばれていること。逆修とは「生前にあらかじめ自分のために仏事を修めて冥福を祈る」ことを意味する
第2

岩には、これまでの調べで、次の文字が刻まれいることがわかっている。

「寛永十一年(一六三四)(十一は元とも読める)宇多川備後守 松誉宗 立( は鎮とも読める)南無阿弥陀仏 光与妙寿福(寿は善とも読める)10月5日 大導日」

 

第3 宇多川備後守は四国愛媛県の人で、一の坂鉱山の管理人であった。
第4 一の坂鉱山は、慶長2年(1601)から元和5年(1619)頃までが最盛期で、寛永11年頃はすでに鉱山の終わりであった。宇多川備後守についての伝説に、次のようなものがある。
   その一  
   
宇多川備後守は、鉱山が終わったとき、この岩の川向いで、二夜三日日、はんぎり(底の浅いたらい)に、米、大豆、銭、小玉銀などをまぜ入れて、往来の人々を施した。
  その二 備後守は、数百日の間、人力を尽くして鉱山を掘ったが、その甲斐もなく、あきらめて防府まで帰り、そこで宿をとった。その夜太陽が懐に入る夢を見たので、急いで一の坂にひき返し、鉱山を掘ったところ、たくさんの銀がでた。

 また佐々並では、この岩のことを「千人まぼ」(まぼは、間歩のなまりで、坑道のこと)と呼び、次のようにそのいわれが伝えられている。
 「ある日、一の坂鉱山で忌日として入抗を嫌った一人の抗夫の反対を押し切って、大多数の抗夫が入抗した。すると大坑道が落盤し、千人が一瞬のうちに死亡した。この岩は、その人達の霊を弔った跡である」と。(広報あさひより)
 文政6年(1823)に、夏木原茶屋溝部新九郎とその息子、下長瀬茶屋の甚四郎という者が、この岩に文字をみつけて不思議に思い解読しようとした、風土注進案に記されている。
 350年前に刻まれた文字が、解明されないままで、自然の風化とともに消えていくのだろうか。


逆修石 ( 上長瀬 )