首切れ地蔵(くびきれじぞう)
▲首切れ地蔵
むかしむかし、それは萩にお城ができて50年ばかりたった明暦の頃でございます。山口の宮野に、渡辺様と申されて、囲碁のたいそう強いお武家様が住んでおられました。その頃、萩の法華寺で、お武家様方の囲碁の会がもよおされ、渡辺様もはるばる萩までおでかけなりました。
渡辺様のお相手は、高麗左衛門という方で、この方もまたたいそう囲碁の強いお方でございました。お二人の勝負は、盤上に火花を散らすはげしいものになりました。勝負も終わりに近づいた頃、石の置き方でとうとう喧嘩となり、高麗左衛門様が、刀に手をかけ渡辺様に切りかかられたのでございます。とっさのことで、渡辺様は、身をかわすひまもなく、その場でお亡くなりになりました。
渡辺様の下僕の源助は、このことを聞いてひどく悲しみ、せめて主人のお墓のそうじをして、お花や線香を供えようと、萩にやって参ったのです。そして、くる日もくる日も、お墓参りをしておりましたが、そのうちお金もなくなりましたので、商いをはじめました。根が働き者の源助は、朝早くから商いに精を出しました。それでも主人のことは、いっときも忘れられず、毎日墓参りを欠かしませんでした。源助のこの忠節を、天も感じられたのでございましょう、商いもだんだん繁盛するようになりました。
そんなある日、源助は長いこと会っていない宮野村の主人のお子さまのことが、気がかりになってまいりました。また、両親のお墓にもお参りしようと思い立ち、宮野へ帰ることにしました。
旅の支度をととのえた源助は、朝暗いうちに萩を立ちました。明木の市を過ぎて、一升谷にさしかかった頃には、夜もすっかり明け、朝日をうけて若葉の露がまぶしいばかりに光っておりました。いくつもの峠を越えて、佐々並の市についた時は、もう昼近くになっておりました。ここで、昼食をとることにしましたが、少しでも早く宮野へ帰ろうと思いましたので、ひろげたべんとうも、そこそこで出立しました。
そして、宮野への近道のある日南瀬にさしかかりましたとき、これまでのはりつめていた気持ちがゆるんで、どっと疲れがでました。そこで源助は、道のそばの切り株に腰をおろして休んでいますと、ついうとうとして参りました。
そうしますと、夢ともなく、現(うつつ)ともなく、
「汝が休みたる下に我が形あり、掘り出して道の側に直しなば、汝の願いも成就し、なお、往来の人、家名を唱え、信心なる輩(やから)には、その縁によって済度せん。我は、即ち地蔵菩薩なり。」と大そう威厳のあることばでお告げがございました。
驚いた源助は、大急ぎで村人を呼んで、あたりを探しておりますと、沼の中に、頭だけの地蔵尊がみつかったのでございます。
さっそく石を重ねてその上にすえ、お坊さんを呼んで供養いたしました。
その後、幼主も成長されて、めでたく仇討ちを果たすことができたのでございますが、これはひとえに地蔵菩薩のおかげと、その後も手厚く供養を続けたのでございます。
これを聞き伝えた村人も、だんだんお参りするようになり、祈願も増してきたそうでございます。このお地蔵は、はじめから首がはなれていたので、首切れ地蔵と申したそうでございます。(言伝え)
(下小木原の旧道にも、外観がよく似た首切れ地蔵がある。)