重源上人と 杣木谷・大四郎山

 今からおよそ800年の昔、平安時代の終わりごろ、源氏と平家は全国で激しい戦をくりひろげていました。
戦いの中、治承4年(1180年)12月、奈良の東大寺が平重衝の軍に火をつけられ焼けてしまいました。
東大寺はそもそも、国がやすらかに治まることを願って、奈良時代に聖武天皇によって立てられたお寺でしたので、後白河法皇は建て直しを勅使に命じました。しかし焼け跡のようすはたいそうひどく、勅使もこまっていました。

 そんな中、ひとりの老僧が勅使をたずねて来ました。その人の名は、俊乗坊重源(しゅんじょうぼうちょうげん)当時61歳の重源はだれもがしりごみする東大寺建て直しの役を自ら申し出たのです。
法皇と朝廷は重源を再建の責任者「東大寺大勧進」として任命しました。
しかし、日本一の大仏さまをもういちどつくりなおし、その大仏さまがおさめられるほどの建物をつくるのは大変なことです。沢山のお金や大きな木材が必要です。
そのころの奈良の近くの山々では、すでに大きな木は切りつくされていて、ふさわしい木材はありませんでした。
そこで選ばれた地が周防国(すおうのくに:現在の山口県)でした。文治2年(1186年)4月、奈良から重源上人がやってきて、木材を求めて佐波郡徳地(さばぐんとくじ)の山に入りましたがそこだけでは十分な木材を集めることはできませんでした。

 重源上人は長門国阿武郡の山々からも木材を切り出すことを決めました。
重源上人は阿武川上流の川上内の山中に入って沢山の人とそれを切り出し、いかだに組んで阿武川に流しました。直径1.5mもある大きな木材を川の流れに浮かべて運ぶために水かさの少ないところは川をせき止め「関水」という水路をつくって木材を流したのです。今、川上地区と旧萩市の境近くの阿武川ぞいに「関水」(椿瀬)という地名があるのはそのなごりでしょう。
また、木材を切り出す山のことを「杣(そま)」といい「杣木谷(そまきだに)」という地名は、重源上人が杣に入ったことからこの地名がつたえられています。
大四郎山も重源上人についてやってきた大四郎という仕事師の名前からそう呼ばれるようになったという見方もあります。

 大四郎のように専門の仕事師もいましたが、人夫の多くは臨時にかりだされた農民たちでした。木材の切り出しは大変な作業で、そうしたたくさんの人々の汗と涙とぎせいのすえに、ようやく東大寺が再建されたのは、建久6年(1195年)3月12日のことでした。そのとき重源上人は、75歳。すでに14年の年月がたっていました。