彦六・又十郎物語
毛利の殿様が、萩にお城を造りなさるようになってから、年貢米のとりあてが、えらいきびしゅうなってのう。村の暮らしは、ひどいものじゃった。
そりゃあ、お城を造るにゃあ、ようけ銭がいるし、中国八カ国におったお武家様が、一緒にきんさったのじゃから、その人たちにお給金もあげにゃあならんし、しょうのないことじゃったろう。
つくる米みゃあ、はしからもって行かれて、食べるもなぁないし、着るもんにしても、ありゃあいけん、こりゃあいけん、ちゅうて、やかましかった。
ええ日よりに畑に出ようと思うと、お城造りや、殿様の道づくりがあって、仕事ができゃあせんかった。
でものう、みんなよう辛抱して働きよった。この辺の山ぁ、みんな草が立っちょって、夏の暑い日にゃあ、みんな刈って、田のこやしにしよった。冬にゃあ、奥山へ行って炭を焼いたり、わるきを作ったり、小木やはなしばを採って、萩に売りに行きよった。
椿の大屋に、口屋ちゅうのがあってのう、そこで口屋銭(こうやせん)ちゅうて、売りに行く炭俵の数で税金をとられよった。そこの役人が、また悪い奴で、村の者から、きまりよりようけ口屋銭をとって、自分の酒代にしよった。
昼間から酒をくろうと、赤ぁ顔をして、「にたぁ」と笑うと、背筋が寒くなりよった。「どねえかならんのか」ちゅうて、みんな悪口ぅいいよった。
慶長九年(1604)に、指月山のところに、城を造ることになったが、あの山ぁ、海の中に浮いた島みたいで、どろで埋めんことにゃ、どうにもならんかった。埋めるにゅあ、石垣ぅよぅけ組まんといけんかった。
それで、城造りがはじまると、古戦場の彦さんや、菅蓋の又さんが、石垣ぅ組みに行った。
二人とも大男で、力が強うて、36貫(135キロ)もあるげんのうを使う仕事師じゃったから普通の者の倍も三倍も仕事をした。
遠方からでも、彦さんと又さんの仕事ぶりは、わかるほどじゃった。
4年たって、お城ができたとき、二人があんなりよう仕事をしたから、殿様が、
「何かほうびをやろう。」
っていわれたが、二人とも、
「ほうびはいらんけぇ、村の者が、大屋の口屋銭を払わんでもええようにしてつかさい。」
とお願いしたそうな。
殿様は、二人の心がけに感心して、その願いをかなえられたちゅうことだ。
まあ、こういうことで、それからぁ、村の者は、口屋のあの赤ぁ顔をした役人の前を素通りできるようになった。
ありがたい話しですのぉ。(言伝え)
西来寺の門前にある「同会 古泉城彦六 菅蓋又十郎」の碑の裏面には、「彦六、又十郎の両名が、萩城の築城に際して、大変精を出して働いたので、その賞として、二人の願いにより、明木村で薪をつくったり、炭を焼いたりして、萩に売りに行くとき、いちいちお上に願い出なくてもよくなった。」と書かれている。
当時は、山の木を切るにも、物を売るにも、願い出て許可を得なければならなかったようだ。口伝の内容とは異なるけれど、彦六・又十郎の二人が、自分達に与えられたほうびを、自分達のものにしないで、村人に分かち与えた美談にちがいはない。
なお、今日でも、毎年4月15日に二人の供養のための法華会(ほっけえ)が、西来寺で営まれている。