■平家伝説■
(へいけでんせつ)
昔むかし、「平家の一族でないものは人間ではない」とまでいわれた時代がありました。平家一門が大きな権力をにぎっていた、今から800年くらい前の平安時代のことです。
しかし、勝手なふるまいが増えていった平家にがまんならず、反乱をたくらむ人たちが現れました。源頼政が平家を倒すために兵をあげたのをきっかけに、全国各地の武士が立ち上がり。関東、北陸を占領した源頼朝らの軍によって平家一門は京の都を追われ文治1年(1185年)源義経によって山口県の壇ノ浦で滅ぼされてしまいました。
壇ノ浦の戦から逃げた平家の人たちは、あるものは中国山脈の山々や海沿いをつたって阿武川べりにたどりつき阿武川の上流へ分け入っていきました。
こうした平家の落人たちが人目をしのぶように暮らしたといわれるところに、川上の平家山があります。平家山は平清宗が落ちのびてとりでを築いた山だといわれています。
あるとき、カモメの大群が阿武川上流へ飛んできたことがありました。大きな羽音を源氏の軍と勘違いした落人たちはおどろきあわて、平家山に逃げる途中多くのものが崖から落ちて亡くなりました。それ以来、カモメが平家山の一ノ瀬の上空に飛んでくると飛べなくなって川に落ちて死ぬようになったといわれます。
ほかにも平家の落人がかくれ住んだ地と伝わる地名が数多くあります。
摂津(大阪府)と播磨(兵庫)の境にある一ノ谷に似ているからつけられた佐々並川上流の一ノ谷。
源氏の追ってから逃げる時にあわてて矢をおさめた矢櫃(やびつ)を忘れたのでついた矢櫃。
惣ノ瀬の兜の浴(かぶとのえき)という谷は、追いつめられた落人たちが老木にかぶとをかけ、自殺したのでついたと伝えられ、今もそこにある30基あまりの五輪搭は、その時亡くなった落人のものだと言われています。
今はダムの底に沈んでいますが、平家山の上流にある清宗(きよむね)というところは、壇ノ浦の戦いに敗れた平清宗が住んでいたからついた名前だといわれてます。仮館(かりやかた)と呼ばれる地も、平清宗が一緒に逃げてきた、安徳天皇の侍女、佐々連姫(さざれひめ)とくらしていたといわれるところです。
京床・小郷(こごう)の地名もはるかな京の都をしのんでつけられたものだと言われています。また弓館(ゆみやかた)という地名は、天下を再びとりもどすため、落人たちがひそかに弓矢の射場をつくって練習したところだそうです。
こうして山深い地にかくれ住んでいた落人たちも、時がたつにつれ源氏の追ってが来なくなると、山から里へくだり、川上一帯にちらばっていったのでしょう。平家伝説は代々の子孫に口づてに伝えられましたが、平家の再起の願いはいつしか忘れられました。
どんなに栄える者も、おごりたかぶってはならない。いつか必ずほろびるものだから・・・・。
川上に伝わる平家伝説は、そんなことをわたしたちに教えてくれるのでした。