■明木市・佐々並市(めいきいち・ささなみいち)
萩往還の完成と共に、明木市も佐々並市も宿場町として、また、市の町(商店の並ぶ町)として栄えた。両市の家並みは、現在とほとんど同じであったが、明木市は、明治24年の大火で焼失して新しく建てられたし、佐々並市も、ほとんどの家が改築されているので、その面影をとどめていない。
1845年頃の記録によると、両市は次のようであった。
(1)戸数
明木市 73軒 (商人20軒 宿人夫馬持 53軒)
佐々並市 62軒 (商人15軒 宿人夫馬持 47軒)
商人、宿人夫(人や荷物を選ぶ人)とも、農業に従事していた。
明木市には初め、御客屋と呼ばれる休憩所的なものがあったが、後に増築されて、宿泊施設をととのえた。明木郵便局隣の佐々木家辺りにあったといわれる。また、御用屋敷と呼ばれる御茶屋の補助施設があり、原善助宅があてられた。
明木市の宿泊施設が、だんだん増設されたのは、安政年間のことである。急を告げる幕末を迎え、人の往来が一段と激しくなったためであろう。そういえば、吉田松陰が、武蔵野の露と消えたのも安政の大獄であった。
明木市佐々木家跡(乳母の茶屋)
旧市土橋高札場
佐々並市
■吉田松陰と金子重之助の護送最後の宿
吉田松陰と金子重之助が、伊豆の下田で、当時最も堅く禁じられていた密航を企て、アメリカ船に乗船しながらも、国交のないことから断られ、失意のうちに捕われの身となって、萩へと送り返されることになった。二人を乗せた二つの唐丸籠は、江戸の毛利藩邸の死骸を捨てる不浄口である黒門から、追い出されるように国元へ護送された。道中、重之助はひどい下痢に悩まされた。下痢がひどいといっても、そのたびに籠から出してはくれない。たれながしである。着物は汚れ放題、籠には異臭がたちこめた。宿舎についても、籠に入れられたままで土間に置かれ、夜着一つ与えられなかった。晩秋の冷え込みは身にこたえる。重之助の命がもつだろうか。松陰は心配だった。20人にもおよぶ藩の役人や番卒のうち、一人としていたわりの心を持ち合わせていないらしい。松陰が、役人に抗議しても一向にとりあげない。ついに松陰は、自分の着ている羽織を脱いで籠の外に投げ、「これを重之助にきせてやれ。」と番卒を叱りつけた。そして、
「重之助の手当を充分にしないのなら、私は絶食するぞ。」と役人に強く抗議した。師弟愛、人間愛を痛いほど感じさせる松陰の言動である。こうして、江戸から300里、一ヶ月に及ぶ長く苦しい旅の最後の夜を、明木で過ごした。
涙松の遺址
松陰 『過明木橋』
松陰 東送碑
■宿駅
宿駅は、人・荷物・御用状などの輸送をした所で、目代(もくだい)と呼ばれる役人がいて、人馬や駕籠の調達、賃金の徴収をした。明木には、人夫19人と馬30頭が配置され、市の現在の小林商店の所にあった。
■高札場(こうさつば)
幕府や藩の御触れ(法令や規則など)を掲示する場所。大きさは、明木も佐々並も大体同じであった。明木の場合を例にとると、長さ6.3メートル、幅1.8メートル、高さ0.9メートルの土塁を石垣で囲み、その上に板葺(いたぶき)屋根のついた長さ5.4メートルの掲示板が、4本の柱に支えられて立っていた。
「慶安の御触書(1649)」を例にとると、次のようなことが書かれていた。
一、 百姓は、酒、茶を飲んではいけない。
一、 百姓は、麦、粟、ひえ、菜、大根その他どんにものでもよいから雑穀を作って、お米をたくさん食べないようにすること。
一、 百姓の衣類は、もめんだけとする。帯や着物の裏に、絹などをつかってはならない。
さらに、藩の御触れ(郡中制法 万治三年 1660年)の中には、
「百姓として、直参の諸士に不心得をしてはならない。少々杖を受けても堪忍し、事情は追って郡奉行官に訴え出ること。はむかった場合は、百姓の方が悪い。右の事情を調べ、諸士に非があれば、その程度によって法を行い、百姓に落度があれば、これを重罪とする。道で直参の武士や他国の乗馬の武士に出会ったら、必ず下馬すること。」といったような事が書かれている。
高札場は、明木では最初、西来寺側から橋を渡って左側にあったが、後に、堂尾あたりに移された。佐々並では、久年側から市橋を渡って左側にあった。現在は河川敷になっている。
その他の公共施設としては、御米蔵とその番小屋があった。明木では蔵屋に、佐々並では宮の川にあった。