昔、宗閑寺というお寺に弘法大師が作ったと伝えられる仏像が本尊としてまつられていた。これに参拝しようと、おおぜいのお坊さん…つまり、法師が峠を越えてやってきた。そこで、その土地を「法師越」と呼ぶようになったという。

 法師越はその昔、守永土佐守という人とその弟が麦谷の里を開拓したあと、弟のほうがこの土地に移ってきて、開拓に専念したところだそうである。さて、時代はくだって江戸時代の後半のことになる。あるお坊さんがやはり峠を越えて、宗閑寺の御本尊を拝みにこの地にやってきた。そのついでに「せっかく来たんじゃから、何かこの土地のためになることをせんにゃあいけん」と思いたった。「愚僧にできることで、この土地のためになることと言うたら、はて、何があるじゃろうかしらん」
 お坊さんというのは、お百姓や人足や鍛冶屋などにくらべると、あんまり力仕事にむいていない人が多い。その代わり、ひととおりの学問は身につけているし、人の前で話をするのもじょうずだ。そこで思いついたのは、寺子屋をひらくことだった。

 学校がなかった時代には、どこの村でも、お寺のようなところで、子どもたちに勉強を教えた。お坊さんや神主さんや浪人している武士などが先生だ。お寺でやっていなくても、「寺子屋」という呼び方をすることになっていた。
 初めの年は十三人の子どもがこの寺子屋に勉強を習いにやってきた。お坊さんは読み書きそろばんを教えた。時には小豆の入ったそば団子を作って、勉強のあとで子どもたちにたべさせたりもした。それがまた、子どもたちには楽しみでもあった。次の年には、二十人の子どもが勉強を習いにやってきた。お坊さんはやっぱり読み書きそろばんを教えた。それから、同じようにそば団子をごちそうした。三年目は、十八人の子どもが勉強を習いにやってきた。お坊さんは読み書きそろばんを教えて、そば団子を食べさせた。こうして、毎年、増えたり減ったりしながらも、何人かの子どもたちがお坊さんの寺子屋に勉強を習いにやってきた。やがて、お坊さんは菊五郎という子どもを養子にして、あととりに定めた。菊五郎はあとをつがなかったけれども、この寺子屋がのちの法宗寺のもとになったらしい、といわれている。
 この寺子屋のあとは今はもうないが、お坊さんの墓は残っている。そこには「天明六年正月十六日」(1786年)と亡くなった日付が刻まれているそうだ。

 

絵:なかはらかぜ

作:和木浩子