命をかけて村をすくった
平助と権太

 「水車を壊せ!!」「水車をのけてくれ!」「水車を使わんでくれ!」

文化7年(1810年)6月14日、川上村の数百人の村人が津波瀬に集まってきました。
阿武川下流の萩の川島の太鼓湾(たいこわん)に水車ができたのがこの事件の始まりでした。
水車は、萩の造り酒屋が酒米をつくために建設したものでしたが、村の人にとって阿武川は山でとれた薪や炭を川船で運び、生活費を稼ぐのために、とても大切な川だったのです。その川に水車ができたために、川の水が減って川船の通行ができなくなり、代官所に申し出ていたのでした。

 ところが村の人が代官所に水車の取り壊しを願い出てもはっきりとした返事はもらえず、村の人の怒りはどんどんふくれあがってこのような大きな騒動になってしまったのでした。
武士が国を治めていた江戸時代では、農民が集まって役所に願い出ることは決まりで禁止されていました。もしこれをやぶればとても重い罰がかせられることになっていたのです。
たくさんの村人が騒ぎをおこした罪でとらえられました。

 役人たちはつかまえた村人をお城で取り調べ、騒ぎの中心となったものを探そうとしましたが、みんな怖くてはっきりと返事をしません、きびしい取り調べの中とうとう、相原の藤原平助と一の谷の岡崎権左右衛門(権太)、遠谷の卯左衛門、灰福の五郎兵衛と作左衛門らは自分の考えをはっきりと訴えました。
「思うことを今ここで言わなければ、水車はなくならない」と勇気を出して訴えたのです。

ところが、かれらの堂々とした態度はかえって役人の疑いをかい、

「あの者たちが騒ぎをけしかけたに違いない」と、その5人だけが牢屋に入れられたのです。

 そして5人の罪がきまりました。

「相原の平助。一の谷の権太は誅伐(ちゅうばつ=死罪)!他の者は島流し!」
最も重い刑がくだったのです。すべての責任を5人が負うことになりました。
平助は処刑されるとき、
「水車とけてうれしや川上の 名の身に残す谷尻の上」という句を詠んだと言われています。

 川上地区の筏場から阿武川に沿って2体のお地蔵さまがあります。お地蔵さまに下の石には「藤原平助」「岡崎権太」の名前がきざまれています。村のぎせいになっ平助と権太をしのび、その恩を忘れまいと村人が墓を移してお地蔵さまをまつってあります。
2人の勇気ある行動で水車はとりのぞかれ、村人はもとのように阿武川を使えるようになったからです。
川上では、平助と権太の功績を末永く後世に伝えるために、「川上村二義之碑」を建て、現在も8月15日の夜に法要のあと灯籠流しをして2人の勇気をしのんでいます。